正岡子規之碑

村上霽月が子規について記し書いたものを子規堂を建立した際、記念として当時の正宗寺住職が石碑にした。

現代語訳

 元禄の松尾芭蕉、天明の与謝蕪村、明治時代の子規の三人は俳諧道の「三聖」と言われてる。  正岡子規居士:慶応三年松山に生まれ姓は正岡、名は常規。幼いころは外祖父の大原観山の影響で文学を特に好み、親しんだ。中学時代には当時松山にあった文学書はほとんど読みつくしたという。東京帝国大学は病のため中退し、叔父の加藤拓川の紹介により(拓川の)親友の陸羯南(が社長を務める)日本新聞の記者となり文学欄を担当した。研究しつつ俳句革新を唱道し、日々の記事面に強調して、「日本俳句ハ天下を風靡せり(日本俳句は天下を広範囲にわたってなびき従わせる)」とかいた。日清戦争が勃発すると従軍記者となり戦争の状況を視察して報道したいと熱望したが病身になってしまったため許されなかった。それでも頑強に主張し、その目的を達成した。従軍後まもなく平和を克復し、金州から帰国する船中で喀血した。一時非常に危険な状態だったが幸い一命をとりとめ、静養のため松山に帰った。当時松山中学教諭だった学友の夏目漱石の家で同居した。地方の俳人を漱石の家に呼び俳句を教えていた。正宗寺の句会にも時々出席した。これにより松山の俳句は大きく変化した。この年の秋には帰郷し、ますます俳句革新に努力するのと同時に和歌散文の上にも写生を強調し明治の和歌文章は俳句と共に一新革正した。晩年次第に病が重くなり、病牀六尺を著した。病の苦しさと闘いながらも研究を怠らず、最後まで文学上の一走の革新を大成した。齢36、明治35年秋、溘焉(こうえん)として逝く。ここに偉績の大要を記して天下後世の記念とする。

昭和19年7月    宗坦禅師 嘱   霽月記且書

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