柳原極堂
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慶応3年2月11日-昭和32年10月7日
名は正之(まさゆき)。幼名は喜久馬(きくま)。松山生まれ。
子規と同じ年であり、松山中学在学中に子規と親交を深め、のちに子規と謀って松山中学を中退し上京した。そして子規とともに共立高校(現在の開成中学校)に入学し、俳句を始める。
松山へ戻って海南新聞社に入社し新聞記者の傍ら松風会を結成し、「碌堂」と号する。日清戦争から帰還療養中の子規を夏目漱石の愚陀仏庵に訪ね松風会員とともに俳句の指導を受け、子規に勧められ号を「極堂」に変え、後に月刊俳誌「ほとゝぎす」を創刊。
松山市議会議員も約7年間務め、伊予日々新聞の社長として新聞の発行にも力を注いだ。晩年は子規研究およびその顕彰に捧げられ、松山市初の名誉市民となり、初の県民賞を贈られた。
自身の記憶と律の記録をもとに、子規堂の再建に携わり、松山子規会の結成を主唱するなど、晩年まで子規の研究と顕彰に努めた。