陸 羯南(くが かつなん)
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転校転職を繰り返した男、陸羯南
安政4年10月14日-明治40年9月2日
幼名は巳之太郎、のちに実。旧姓は中田。陸奥国弘前生まれ。ジャーナリスト、日本新聞社長兼主筆。
幼少期から漢学を学び、東奥義塾に入学したが明治6年に中退し、仙台の宮城師範学校に入学した。しかし校長と衝突してしまったため、退学となった。
明治9年に上京し司法省法学校に入学したが、明治12年『賄征伐』事件で原敬らと共にまたもや退学処分を受けた。
故郷青森に帰り『青森新聞』編集長、太政官(だじょうかん)文書局、内閣官報局編輯(へんしゅう)課長を務めた。
明治22年に新聞「日本」を創刊した。また明治を代表するジャーナリストとして、「国民主義」を主張し、日本の欧化政策の批判した。
著書には「羯南文集」「羯南文禄」「陸羯南全集」全10巻がある。
子規を支え続けた羯南
羯南の司法省法学校時代からの友人である加藤拓川の甥が子規であり、子規の文学的な才能を見込んで後に明治25年に日本新聞社に入社させた。新聞「日本」の文学欄に、子規の文学論や短歌や俳句を掲載し、活動を支援した。
また羯南は闘病生活を送る子規を、自邸の西隣にある家に住まわせ物心両面の支援をし続けた。
この西隣にある家が後の子規庵である。
子規は羯南のことを「生涯の恩人」と涙を流しながら語っていた。