子規堂は三代目

子規堂について

俳人・正岡子規。
その少年時代の暮らしを今に伝えるのが「子規堂」です。

現在の子規堂は、正岡子規が17歳まで過ごした旧宅をもとに再建された建物であり、明治の面影を今に伝える貴重な場所となっています。
なお、よく誤解されますが、子規堂は「正岡子規が生まれた家」そのものではありません。
子規堂は、“子規が育った家”を再現した建物です。

子規堂のはじまり

子規堂
大正15年(1926年)

子規の友人であり俳人でもあった柳原極堂氏らによって、当時松山市湊町4丁目1番地にあった正岡家旧居の一部を移築し、「初代 子規堂」が建てられました。

昭和8年(1933年)2月6日、正宗寺で火災が発生。火災の原因は失火としかわかりませんが、いずれにせよ壮大な伽藍を誇った本堂・庫裏とともに、子規堂も焼失してしまいました。

子規堂
昭和10年(1935年)

9月14日の子規堂再建落慶式が無事行われ、二代目 子規堂が再建されました。

昭和20年(1945年)7月の松山空襲によって正宗寺も子規堂も再び焼失してしまいました。

子規堂
昭和21年(1946年)

12月19日、三代目 子規堂が再々建されました。

再建にあたっては、子規の妹・律が残した記録図や、柳原極堂氏の記憶をもとに、当時の居宅構造が忠実に再現されました。
往時の正岡家のたたずまいを今に伝える建物として、多くの方に親しまれています。

「子規の生家」と「子規堂」の違い

正岡子規は、慶応3年(1867年)、現在の松山市花園町付近に生まれました。
翌年、正岡家は湊町新町(後の湊町4丁目1番地)へ転居します。
しかし、その家は翌・明治2年(1869年)に火災で焼失してしまいます。

当時、母・八重は妹の結婚式へ子規を連れて出かけており、帰宅途中で自宅が燃えていることに気づいたと伝えられています。
まだ幼かった子規は状況を理解しておらず、燃え上がる灯りを見て喜んでいたそうです。
子規は後年、随筆『筆まかせ』の中で、この出来事を次のように記しています。

「余は喜びて踊り狂い、提灯よ提灯よとて、笑い興ぜしとぞ」

翌・明治3年(1870年)、正岡家は同じ場所に家を建て直します。
この建て直された家こそが、現在の子規堂の原型であり、子規が17歳までを過ごした家となります。

現在残る史跡について

「正岡子規誕生邸跡」は、現在の松山市花園町通り沿いに石碑が建てられています。


また、「正岡子規旧邸跡」は、中ノ川通り付近に石碑と句碑が設置されています。
周辺は交通量の多い道路ですので、ご見学の際は歩道の案内板からご覧ください。

子規堂へ

子規堂は、俳句や文学だけでなく、明治という時代の暮らしや空気を感じていただける場所です。

正岡子規が青春時代を過ごした空間を、どうぞゆっくりとご覧ください。

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