子規堂

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人物

正岡子規

正岡子規-まさおかしき

慶応3年9月17日-明治35年9月19日

 名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改名した。
 俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に亘り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした明治時代を代表する文学者の一人である。

夏目漱石

夏目漱石-なつめそうせき

慶応3年1月5日-大正5年12月9日

 名は金之助(きんのすけ)。東京生まれ。大学時代に正岡子規と出会い俳句を学ぶ。
 帝国大学英文科卒業後、松山の中学校教師・熊本高等学校教授として務めた後にイギリスへ留学する。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら雑誌「ホトトギス」に「吾輩は猫である」を書き、これが評判となって「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書いた。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。

柳原極堂

柳原極堂-やなぎはらきょくどう

慶応3年2月11日-昭和32年10月7日

 名は正之(まさゆき)。幼名は喜久馬(きくま)。松山生まれ。
 子規と同じ年であり、松山中学在学中に子規と親交を深め、のちに子規と謀って松山中学を中退し上京した。また、松山へ戻って海南新聞社に入社し新聞記者の傍ら松風会を結成し、「碌堂」と号する。日清戦争から帰還療養中の子規を夏目漱石の愚陀仏庵に訪ね松風会員とともに俳句の指導を受け、子規に勧められ号を「極堂」に変え、後に月刊俳誌「ほとゝぎす」を創刊。
 松山市議会議員も務め伊予日々新聞の社長として新聞の発行にも力を注いだ。晩年は子規研究およびその顕彰に捧げられ、松山市初の名誉市民となった。